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節度、克己、厳正、高雅、忍耐、――これらの、その内実に於ては達しがたい、しかも外見の立派さのために容易に人を惹きつけ易い徳は、漢学の素養のある正文にとつては親しみのある、又好ましいものだつた。彼は一人息子だつた練吉に望みをかけ、きびしい育て方をした。中学を出る頃までは良家の子弟らしく温和おとなしい一方だつた練吉は、医専へ入つて親の手許を離れた時分から急に人間が変つたやうに見えた。女の味をおぼえたのである。最初は女学生との関係であつた。次は年上の婚期のおくれた女と馳落かけおちした。その次は芸者だつた。どれもこれも殆ど生き死にをするやうな騒ぎであつた。一変して放蕩息子と化した練吉に仰天した正文は、この時覚悟をきめて、練吉はまだ学生の身だつたが、その芸者を嫁に迎へることにして、学校の所在地で家持ちをさせたが半年とつゞかなかつた。女が結核になつたせいもあるが、別れる時にはかなりの手切金をとられた。
奇妙な貸家で、だいたい差配というものは家主に使われているのが普通のはずであるが、ここはアベコベに、差配が伊東で一二を争う金持で、御殿のような大邸宅に住んでいる。家主の方も相当な洋館にいるが、差配にくらべると、月とスッポンである。差配は七十ぐらいの老人で、市会議員で、土建の社長だそうだ。
かういふ目には、あの鬼倉との一件の後でも、多少会つていた。だが、その時も今も、房一は同じやうに何か尻ごみするやうな当惑に近い表情を浮かべ、なるべくその話から逃げるやうにしていた。その表情は、盛子の妊娠のときや道平の病気に際して現れたものに似て、何となく滑稽なところさへあつた。鬼倉の一件も、営林署の消防演習のことも、開業のはじめに彼が空想していたところのもの、あの町の人の心をしつかりと捉み、信頼させるといつた野心の点から云へば、巧まずしてその効果を果すものだと見做していゝ筈であつた。事実、さういふ様子は町の人の態度にはつきりと現れていた。あんなに大勢の人の目前で行はれたことであるのにかゝはらず、出張所で最初に口火を切つたのが神原喜作ではなくて房一であり、解決したのも房一だといふ風評さへ立つていたのである。無責任でもある代りに、どこか一脈の根柢あるかういふ風評は、今何となく房一を漠然と押し立てる方に働いている観があつた。ところが、どういふものか、房一はそれを避ける様子を示したばかりでなく、一種嫌悪の面持を見せた。
「さうですね。さつきからどうもさうらしいと思つていたんですが、失礼しました」
房一は彼の三男であつた。いつも泥と垢で真黒な顔や手足をしていたが、薄汚い皮膚の下には温い血の色が漲つていて時々水いたづら、それは河や溝川で小鮒を追ひかけることであつたが、その後では両手首から先だけの垢が自然にとれて、小さく頑固な指々が紅く燃えているやうであつた。むつちりと肉のついた肩、粗暴でいながら間断なく閃めいている眼、小柄な身体をゆすぶり立てて歩いたが、彼は対岸の河原町のしつけのよい子供達を憎んでいた。町の子供で、彼よりも歳上の子供が一度よつてたかつて彼を打ちのめしたことがある。物蔭からわつと出られ、見るまにまはりを囲こまれた瞬間、彼は鋭い獣のやうな身構をした。皆は一時ひるんだが、彼の方でも逃げ場はなかつた。一同が迫つて、次にどつと襲ひかゝられると、房一はさつと地上に身を伏して両手で頭を抱へ足をちゞめ、亀の子のやうに円くなつた。埃にまみれ、擦傷や打たれて青く腫れた横頬のまゝ、彼は家へ帰つたが一口もそれについて語らなかつた、それ以後彼の粗暴さは以前よりももつと本能的な動物的な狡猾さを具へて来た。彼は自分をふくろ叩きにした者の顔を一つ一つ覚えていた。彼はその一人一人に復讐をはじめた。そのやり方はかうだ――彼は殆ど一二町手前から敵の顔を見わける。そして、何事もなかつたやうな又何事もないやうな顔で、その汚い垢だらけの顔面から小さい眼だけをきらつかせ傍見わきみをして近づいて行く。相手が彼に気づき警戒する様子を見せると、彼はますます鈍重な呆ぼうとした面つきになる。一二歩の間に近づいて、相手が彼を見て、彼に何の敵意もないと見てとると、急に嘲弄したり、又は機嫌買ひの微笑をする。それでもきよとんとして相手を眺める。しかし、その瞬間彼は一心に胸を張りつめて相手の隙を狙つているのだ。隙がみつかるや否や、彼は突然躍り上るやうにして相手にとびかゝる。そして必らず上背のある相手の顎を狙ふ。むつちりした弾力のある真黒な拳固を突きやつて、その次の瞬間にはもう一二間向ふの方へ走つて逃げている。走りながら一撃を喰はしているのだし、走力が拳固に力を加へているわけだつた。そして相手があつと声を上げて立ち悚すくむか、あるひは身構をしたときには房一はもうはるか彼方を点のやうに小さく一散に走つているのだつた。
「おい、お茶を入れてくれ」
思はず口に出かゝつたが、慌ててのみこんだ。彼の頭には今やすべてが明かになつた。土工仲間の刃傷沙汰だつた。その息づまるやうな情景が頭に閃ひらめいた。
温泉は街道から幾折れかの石段で溪ぎわまで下りて行かなければならなかった。街道もそこまでは乗合自動車がやって来た。溪もそこまでは――というとすこし比較が可笑おかしくなるが――鮎が上って来た。そしてその乗合自動車のやって来る起点は、ちょうどまたこの溪の下流のK川が半町ほどの幅になって流れているこの半島の入口の温泉地なのだった。
「ふうん」
「いや」
「心臓は多少弱つているが、大したことはない。――いゝかね、あんたの身体はもともと丈夫な身体だ。ようく診たがどこも悪くはない」
と、房一はぐいと身体を起した。それがあまり突然だつたので、傍にいた徳次は慌てて立ち上つた。
その時ふいに、相沢の濁み声が聞えて来た。唇はうごいたが、眼玉があんまりさつきのまゝだつたので、その声はどこかよその方から、相沢の人並以上にぴんと張つた耳のうしろあたりから響いて来たやうに思はれた。