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「うん、うん。あ、さうだ、顔を一寸洗はなくちや」
と、その稍落ちつきのない女らしい黒瞳くろめがちな眼を道平に向けた。
「先生、どうしなさる?着て行きますかい」
「さうですよ、ですが、何年ぶりでせう。これがもつと他の所だつたらおたがひ気がつかなかつたかもしれませんよ」
「いや、わたくしもね、すぐさう思つたんですが、どうも、こんなところで、思ひがけなかつたもんで――さう、さう、先日は失礼しました、つい出ていたもんですからお目にかかれなくつて、そのうち伺はうと思つていたんですが」
とにかく、それは遠い向ふで起つていることだつた。対岸の火事を見物するやうなものだつた。
「うん」
「どこか悪いですかな」
と、云つた。
と、鬼倉は意外に思つたらしい。小首をかしげていたが、
ことしの梅雨も明けて、温泉場繁昌の時節が来た。この頃では人の顔をみれば、この夏はどちらへお出いでになりますと尋ねたり、尋ねられたりするのが普通の挨拶になったようであるが、私たちの若い時――今から三、四十年前までは決してそんなことはなかった。
と、大声で云ひ聞かせた。
「どうしても学問をやるというて聞きませんだつたが。――それで神戸高商を出ましてな住友へ入つて結構やつとりましたが、三年前にぽつくり行つてしまひましたよ。病気ですか?結核性脳膜炎とか云ひましてな、十日ぐらいで、あつさりしたもんでした」